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『荒城の月』にも”戦後教育”の誤魔化し *カルロス・クライバーの指揮 |
| 前回の『元旦に 日章旗なく 古都京都 悔し涙も嬉し涙も 継がぬ 日本』の事。誇れる古の歴史、文化引き継ぐ街京都に日本の旗の見られない事の異常さ。 こんな事が定着していい筈がない。 以前の『蓮の花がさく』↓に書いた如く、その時代時代に生まれて来たことの意味、意義は、真に自分の知り得た事、その「自身の歴史」を語り継ぐこと。これから先、政権が民主党に移るだろう。これは致し方ない部分がある。そして歴史教育はもっと自虐的になる可能性大である。だからこそ、戦後教育であっても昭和21年生まれの私だからこそ、未だマシだった歴史の事を伝えねばならないのだ。田母神前空幕長の論文のように『日本だけが悪かった』のではない事。戦勝国はもっと酷かったのに全部蔽われてしまった事ーーー。敗戦国として受け容れざるを得なかった歴史観と違う歴史観をも『知る権利』が国民にはあるのに『知らされず』にずっと来たのだ。教育が教えないから。それが何故必要かと言えば田母神氏の言の如く『自分の国を愛せない国民は自国を亡国化させる』からだ。 日本のこの定着は、音楽『荒城の月』にも表れている。♪春高楼の花の宴・・・の”えん”の”え”の部分は元々、作曲者の滝廉太郎が半音下げて作ったそうだが戦後の(私達の)音楽教育では山田耕作の編曲により”半音上げて”平調にしてしまったと、以前「題名のない音楽会」というテレビ番組で今は亡くなられた黛敏郎氏が語っておられた。ここにも”戦後教育の誤魔化し”があった。明治維新で『近代化』を成し遂げた日本だったが、その心内には哀感があった。それでしか当時の西欧列強からの被植民地化を免れ得なかった。だから「猿真似」と言われても『日本の文化、文明』を捨てざるをえなかった・・・・・。その想いが滝廉太郎をして”えん”の”え”を短調と為さしめたのだろう。その滝の思惑も鑑みず、第2次世界大戦後の日本は悔しくて、悲しかった筈なのにもそれをも総括せず”誤魔化し”ーーーーー現在に至っている。もう一度『荒城の月』を原曲に戻し、滝廉太郎の心音(こころね)に耳を澄ますべきだろう。そして、黒船来航からの日本の近代史を教えるべきである。 〇〇〇〇〇〇 再掲『蓮(はす)の花が咲く』 死ねば、その人生の一冊の本が自ずと出来上がる。 その刻、「決定された一生」となる。 変容、変節を経て、「歴史の証人」となる。 それは、この時代に生きたわたしにしか、出来ないこと。 生き継ぐべきは、それしかないではないか。 死ぬ時は何も要らぬ。 「六文銭」(現在の貨幣で100円位)あればいいと言う。 三途の川の渡り賃。なんと身軽なことだろう。 しかし、 その河がドブ河でない事を願う。 澄んだ自分を映してくれる河である事を、希う。 そこに、蓮の花が咲く。 〇〇〇〇〇〇 同じく『こりゃー新春(はる)から縁起がいいよー』の第2弾は、 ”新春に クライバー再聴 「縁」起よし ” 1/9から日付の変わった1/10午前0時半位からNHK教育テレビを観ると「ETV50周年クラシックアーカイブ/世紀の名演奏」が放映されていて、丁度カルロスクライバー指揮で『ベートーベンの交響曲第7番』が演奏されるところだった。 すぐに第2楽章になった。この曲を最初に聴いたのは忘れもしない平成8年9月27日のFM放送からだった。その翌日に下の弟が亡くなった(私の歌『秋』の歌詞2番に書いている)。だから感動感も大きかった事と併せて忘れられない曲となった。その当時一番印象的だった第2楽章を聴いた時の情況・・・・・ ”光仏の 足音微か 眼前に 眩しき大きさ 『7番』聴きて” (「夢現」収編) この第2楽章はカルロスクライバーの指揮でしか見ることの出来ない音景で、最初の「かすかな、かすかな」音の出始めから”神々しさ”を感じる。 そして、第4楽章の運命的破壊力。”この地球””宇宙”のエネルギーを彷彿させる。 それはやはり人間、万物は抗えないものの営みの中にある事を実感すると同時に、それらを創り表現しているのが『人間』、人間の集団であること。そこにはその『抗えない力』の一端が宿されていると思わせずにいない演奏。 指揮しているクライバーを観たのは初めてだったが、指揮者すべてに共通の音楽に没頭、というのは勿論だが、指揮者(演奏者も)のエネルギーの大消費が共有された様な、聴いた後の疲労困憊の充足感、暫く音楽を聴かなくてもいいという満足感。しかし指揮するその姿は楽しくて仕方ないと見てとれ、まさに最高の『音』『楽』でした。 |
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テレビで『松方コレクション』を観た。 |


by 花うさぎ
国防の為「国民投票法」施行を